昭和44年12月5日 夜の御理解 ★
・・・、によって安心の心を頂く、また、信心よらなければ本当の安心は得られるものじゃないでしょうけれども、まあ、私共が本当の安心というところまではいかんにしましても、平静心、平静心をお互いが失わないようにしたい、それによって、また私共が間違いの無い絶対のものを、というようなものを一つそこにはっきりおいて、それに向かっての信心をやはりなさなきゃならない、例えば、真の信心、真の信心という事をいわれますけれども、( ? )これが真の信心だと本当に思えれる信心に精進しておる、そこから、私は、ね、安らぎというか、平静心が得られるとこう思うんです。
私は、こうして体が、まあ、( ? )ですけれども、こうして御用だけは出来ます、いつ、( ? )に医者に見てもらいましても、その、まあ、いろいろ、(そうようりょく?)が悪いという事を言われますけれども、もうとにかく先生が確かに血圧が高いだろうとか、低いだろうというて、いわれます、ところが、これはいつでもですけれども、ちょうどいいですというところにある訳です。
私はその医学の( ? )よく分かりませんけれども、やはり、私の平静心が私の血圧をいつも平生のところ、私の(?)健康状態、そういうふうにだったらここん所に、の線に上げたら大丈夫だというようにです、高くもなかなければ低くも無いというようなおかげを蒙ってくじゃなかろうか、みんなのお医者さんが言われるですね、そして、不思議ですね、と言うようなことをいわれるんです、だいたい今朝方は高(たこ)うなからなきゃいきなさんとですがとかね、なんかそこにその異常が泣かなけりゃならんなあと私のようなタイプの体は見られた例から言うとそれなんですけれども、おかげで私は血圧だけはおかげでどこにおっても( ? )全部勝彦さんにそれをいわれました、何回も何回も計って頂いたんですがね、だから、糖尿病の時もやっぱり、あの、医大でもそうでしたし、あの、久留米の西病院に参りました時はやっぱそうでした。何とか病院でしたかね。( ? )やっぱそうでした、血圧は高くもなければ、低くもないというおかげを受けておるという事は、私は私の、まあ、本当の安心ということは頂いてないに致しましてもですね、やはり、私の平静心がそういうおかげを頂いておるんだと。
今日は私、まあ、テレビでその映画を見せて頂きよってですね、血圧がその、上がる、お医者さんの、いろいろあってたんですよ。だから、ちょっと( ? )血圧があがる
( ? )大事にしてる、ちょっと心配事があったら、また、血圧が上がるといったようなことが、その、いわゆる、その映画をですね、テレビ映画を見せて頂きよってから、私はおかげを受けておるなあとこう思います。ね、やはり、おかげを頂いて平静心をたもさせて頂いておる。
それにはね、私共の心の中には、やはり、これはもう絶対だと、ね、これは間違いがないと、という物を求め求めして信心の稽古をさせて頂いておるということです、ね、ですから、私は私の生き方、真の信心というのは、ね、神様が私共に求め給う、ね、例えば修行を私共が合掌して受けて行くというような心の状態にならせてもらうことが真の信心であり、それを精進させていただく事が真の道を歩かせて頂くことであり、また精進する事であるというふうに申しますね。確かにこれは(?)もう絶対だと私は思うんですよ。
その、私は真の信心というのを、今朝の御理解からまた、はぁーここに真の信心があったなあというようなものを感じたんです。
今朝の御理解は身近に15分余りの御理解でしたね、けど、その中に、その、感じましたことは、今度の御本部参拝についてそれを思ったんですよね。
昨日に、昨日、教務所から通知を受けて、その、しかも今日までに、明日までに通知をしなければならないというような急な御本部参拝( ? )、それについて慌てて、まあ、今度はだーれも申し込みがあっとらんが、または、教会の方でも研修一つしてないだけれど、と思うてから今朝に御祈念の時に皆さんにその事を申しましたが、たぶん皆さんはですね、高山さんなんかはこの頃、親先生がこんどの報徳祭にお参りになりますからお初穂を託けてくださいというて、マイクで放送されてから、はぁーこんどは親先生だけがおいでられるだなとこう思うとったとこう言われる、で佐田さんなんかはもうお参りをしたいと思いよったけれども、これはやっぱり豊美さんがあっちへおい出られたから、もうお忍びのようにして今度は親先生がおい出られるじゃじゃろうかと思うて遠慮しとったっち、いよいよな話を聞いてですね、なるほどこれは、あの、昔のようにですね、さぁー、ね、椛目時代は報徳祭なんかは年末のお礼だ、当時、来年のお願いもしてこにゃならんからといんで、返って一段、一段とお参りが多いかった、ですから、日頃お参り、ざらーっと書いて、お参りが出来ない人は消してくださいというような行き方で行っておりましたけれども、私はこの百年、百十年の記念大祭もうでしたが、ただ、掲示がしてあるだけでお参りをした、お参りをしたという人達で、まあ、あれだけの人数がでけたんですけれども、今度も、やはりその、私はつもりでおったんです、けれども、やはりこれは親切が足りなかったなあ、掲示ぐらいしなければならなかった、お初穂ぐらい呼びかけなければならなかった、または、どうしなさるですかというぐらいお伺いぐらいは、やはり、これは事務室におる先生方だけでもしなければ遅かったな、これはなんとかに指を突っ込むごとさぁーと言うたってできんからというて、まあ、いったことでございますよね、どうして(?)なってきたのだろうかと私は今朝それを思いまして、それから、あの、まあ、そのことは丁度、高橋さんがお参りしてみえたから、まあ、( ? )ぐらいしてから、参るか参らないかのそれだけは、また、自分に言われなかったといったような人もあってはいけんから、電話をして下さいと言うて、今日して頂いた訳ですけれども、そのことをね、願いさせて頂いておりましたらね、なんでしたかね、教え、教えの何とか、今朝の説教聞かれたんですか、今日の御理解、聞かれました、教えの何ていうた、うーん、なんだったかね、う・・・ん、教えの、まあ、例えば教えに浸(ひた)りすぎて、どげんじゃったかな、(参拝者側から答えられた =「教えになれて」末永先生が答えられた)、そうそう、教え、ね、教えになれるだったね、そうすと?(参拝者側から答えられた = 「おかげになれる」末永先生が答えられた)、★ うん、おかげになれてるという、教えになれておる、あんまり慣れすぎたということ、ね、本当にない命を頂いた人、今、一年間を振り返るともう本当にお礼参拝でもさせてもらわなければおられない人がたくさんあるのです、けれども、そのおかげになれとる、ね、だから、また、日にち、はぁー本当に合楽におかげを頂いて、有り難い、有り難い、もう本当に日にちこのような有り難い御教えを頂いてといいながらその有り難いという(?)でも慣れっこになってしまっておる、それがそう言う結果になっておる、これは、私は初めはそうだと、私自身まあ思わせて頂いたんですけれども、同時に、私の御本部参拝に対する所の思いという物がね、今朝からその事について、教典を開かせて頂いて、また一段それを思うたんです。そのことを頂いたら、まず、御理解26節のね、信心には連れがいらぬ、一人信心せよと仰る、ははー、もうほんとに私が思うておるように、まあ、私一人でもへんだと、ね、だれかれに、さぁー参りなさい、参りなさいといわんでも、まあ、ついて来る人たちだけ、それだけでいい、一人、信心に連れはいらぬという信心のことだろうと私は思わせてもろうて。
次には、次のその、御理解24節に「人に誘われての証拠となしの信心は付け焼き場の信心じゃ」と頂いた。だから、あんたどうですか、お参りなさらんかとか、書き出されとったから、先生が書いてあったから、まあ、お参りせじゃこてという、そのお参りはやはり付け焼刃、こういう信者をつれて参ったんではいけないと私は思わせて頂いたんです、事実、今朝、ね、信心に連れ入らぬ、26節にはそうあれ、24節にはそうあります。
けれどもです、ね、付け焼刃の信心じゃ、ではとれやすいと、ね、どうぞ、その身から打ち込んでの真の信心をせよと言うところに至った時です、はぁー、ここんところがかけておったなと思うたんです。ね、どうぞ、その身から打ち込んでの真の信心、ははーここに真の信心が出て来るんだと、ね、なるほど私が言う、例えば私が平静心でおれるということはです、ね、血圧が上がりすぎもしなければ、低くもないと、丁度いいところにいつもあるんだと、それは何年前にしても、何年後にしてもやっぱり同じだと、それは、私が真の信心、これこそが真の信心だという信心を行じておるから、ね、またそれに精進しておる所から、それに、引き当てのように与えられる心の平静心というものがそれにつながっておるなあと、けれども真の信心とはそれだけではないと、真の信心とはいろいろあるんだと、私共がご本部参拝をさせて頂くその思いというものが少し、思いが違(ちご)うとったなと、ね、教祖様が、難波の近藤藤守先生にも仰っておられるように、ね、金光大神は大谷にしかおらんと、ね、教祖金光大神に見(まみ)えたいと思うなら、やはり、参ってこんでもよいぞといわれても、やはり、大谷にしかおらんのだから、ね、それでもやはり、それでもやはり、お許しください、ご本部参拝だけは、月々のご参拝だけはお許し下さいというて、願われた所にです、近藤藤守、真の信心になったと仰ったっち。
ははぁー、そういうところにです、私共がいうてはおりますよね、教祖様にお見えにかかるなら大谷にいかなければ、教祖様の奥城に出るという事は大谷まで行かなければ足を運ばなければ、これだけはでけんのだ、こっからは拝まれんのだといっておるでしょう、ですから、これは絶対のものですね、私が天地の道理からいうて法則からいうてです、ね、天地自然が私共一人一人に求める、そういう例えば修行を受けて立たせてもらう生き方こそが真の信心であることも絶対だ、けれども、これを信心の上で、金光教の信心の上でいうとです、私共の教祖様あっての、教主様あっての、ご本部あっての私どもであるという事がです、分からせて頂いて、そこん所に私はね、その身から打ち込んでの真の信心ができていなかったなあと気付かせて頂いたんです。はぁーこれはもう少し参拝の仕方を変えなくてはいけない、教祖の奥城に出らせて頂く、その一時だけでもです、それを、それを熱情をもって、そこに、一心と定めての打ちんでの、打ち込んでの信心がうけられるなら、例えば、私共がつき参りを楽しみにさせてもらいよった、あれ以上のものをです、私はもう少しここに現していかなければいけないなと。ね、打ち込んでの真の信心と、ね、真の信心がそこの( ? )そこに求め、しかもそれを要の所の真の信心である、金光教の信奉者として、これは真の信心を私はおろそかにして、ただ対極的な意味合いに於いての真の信心だけに精進しておると言うような事がです、はぁーおろそかであったなあと、今日、初めて気付かせて頂いたような訳なんです、ね。
だから、私共が、なるほど、御本部月参りなんかは毎月ほら、教会あたり、久留米あたりも必ず何人かなさる方がありますよね、人たちがです、やはり、それだけに掛けておられて、やはりおかげを受けおられるという事実がやっぱあるということなんです、ね、やはり間違ってないからんです、その事だけには、ね、ですから、そこんところをですね、私共が改めて分からせて頂いて、真の信心がまだいくらでもありましょう、けれども、対極的に言う真の信心とです、お道の信奉者としての真の信心と言うところがです、私共に欠けておったと、そういうことがです、例えば、本当に四神様の御大祭といいや、九州のお祭りとさえ言われておりました、ね、四神様のお祭りには、それこそ、団体列車がでけておったが、最近では、今度のあれに、教務所から言うてきておるともですね、ただ、急行が、あの、行き戻り、金光に止まるという事の通知と、参拝の人数を、先生知らせてくれ、15人以上は団体が出来るといったようなことをいうてきとることだけで、もう、教務所でまとめて扱うがとない訳なん、人数が。本当にこれでは相すまんことだったな、真が欠けておった、九州の信奉者としての信心が欠けておったと、私は改めて思わせて頂いてからね、これはなるほど誘われての証拠となしの信心はいけません、今まで書き出されておったから、参るといったようなものではいけません、ね、けれども、これは銘々がです、その身から打ち込んで、これはもう絶対のもの、ね、例えば、親先生がいかれるところになるとどこんでも行くという生き方とは違ったです、やはり、御本部、または教祖様の奥城、教祖様にお目にかかれる、そこにです、やはりもう少し本当の焦点が、どうでもというその身から打ち込んだ信心がなされて、それが真の信心だということになるとするならです、これは内容を変えただけですね、真の信心を頂く事になります。
これから、そういう信心に私は精進させて頂かなければならないなあ、欠けておったものに気付かせて頂いたという気がする、同時にそういう真の信心を、私は御本部参拝を絶対させて頂いておるから、だけで平静心を頂いておる人があるんですよやっぱり、ね、所から見るとです、やはり、お互いの血圧が高いとか、(笑い)低いとかという平静心の欠如からなんだと、ね、これは、平静心がです、血圧だけではありません、すべてのおかげに同じつながりをもつことは勿論、おかげは和賀心にあるのですから、いわゆる、平静心にあるのですから、その平静心がまた次の精進になる時です、与えられるのが和賀心だと思います。そこからおかげが受けられると言う訳なんですよね。
どうぞ。
末永静行
2005年6月5日